仕事に学歴は関係ない?
今更な話題だが、学歴(学校歴)の高低と仕事の能力に相関性が見られるかどうかは割と意見が分かれているように見受けられる。「全然関係ない」「仕事の中で学歴が関係する領域とそうでない領域がある」など意見は様々だが、当サイトは全面的に関係しているという立場である。
別に難しく考える必要などなく、高学歴な人は基本的に全員仕事が出来る※と言い切ってよい。
S級大学にポンコツはいない
やっぱ凄いよアイツらは
いや、どこかにいるのかもしれないが、少なくとも個人的には仕事でも学校でもこのクラスの人達で頓珍漢でどうしようもない奴など見たことがない。知識量、論理性、ひらめき、表現力、作業の正確性・スピード、どれをとっても文句のつけようがなく「モノ」が根本から違うので、こちら側には一種の諦めのようなものを、ある意味清々しくもたらしてくれる存在だ。
「東京一工でも使えない奴はいる」というのなら、それは余程シビアでレベルの高い業界・企業での話なのだろう。そういう人達ばかり集まってくるならその中で優劣が発生して当然となる。
これがA級以下になってくるとランクが下がるに応じて少しずつ「あれ?」って奴は多くなっていくものだが、国内上位1%に入るくらい勉強が出来る人で全然仕事が出来ないポンコツというのは、むしろ稀有な存在だ。
やっぱ高学歴がいい!
現に大手企業は学歴フィルターをかけて高学歴を採用しにかかる。最近は何かと「多様性」とやらが求められるので採用大学も多様であるかのように見せているが、珍しい大学出身者の殆どは「訳アリ」なのが現実であり、本当に戦力として採用ターゲットにしているのは依然として出来るだけ学歴が高い学生なのである。
もちろん既述のとおり、企業内での政治力の関係で大学ごとの採用枠が左右されて余計に大学間での格差が拡がることも関係するが、ここでは採用の制度面・政治上面の話は一旦度外視し、純粋に実力・適性面の話であることを前提とする。新卒一括採用を効率的に進めるためにフィルタリングがあるのだが、その切り口として多くの大手企業が「学歴」を選ぶからにはそれなりの理由がある。
どういう関係があるのか
能力面(理解力と表現力)
理解力
これは高学歴の方が優れていることは想像に難くないだろう。現状で起こっていることや相手が言っていることをまず正確に把握するというのは、大学受験の勉強や大学時代の勉強の中で散々やってきたことである。
表現力
表現には、文章での表現と口頭での表現があるが、仕事では後者の方が大事であるというイメージが強い。高学歴でも口下手な人は少なくないが、口の上手さのというはあくまで仕事を進める上でのツールの一つに過ぎず、弁が立つ人や声の大きい人が必ずしも仕事が出来るという訳ではない。
そもそも口が上手いことがコミュニケーション能力の高さだと勘違いされがちだが、仕事におけるコミュ力は、組織の規律や士気を乱すことなく物事を前に進める力を意味するのであり、相手を言いくるめたり、高圧的に突破したり、短期的にその気にさせればいいというものではない。確かに言語化能力の高さは相手に自分の考えをクリアに伝える点では有利になるが、仕事は一方通行では成立せず、組織の全体感を把握しながら当事者間でのキャッチボールを交わす中で、自分以外のあらゆる人達の思いを受け止める器が必要とされる(たまには受け流すことも必要だが)。
文章力は意外と大事
しかもメールやチャットがここまで普及した時代、コミュニケーションとしては文章の方が遥かに頻繁に用いられるようになってきた。少し前までは何事もなるべく対面で話さないと失礼、最低でも電話することが求められ、それがだんだんメールでのやりとりが市民権を得て、最近ではTeams等が仕事でも当たり前のように利用されてチャットが主流となりつつある。
そこでは如何に簡潔に要点を押さえて相手に分かりやすく伝えられる文章を組み立て素早くコミュニケーションをとるかがより一層求められるようになっており、字数制限はなくとも「簡潔に書きなさい」という問題は、仕事で毎日幾度となく問われ続けている。
マインド面
高学歴はコレも優れている
計画性をもって目標に向かってひたむきに努力出来るということが仕事でも活きるということは言うまでもない。それだけではなく、多くの仕事では組織的な動きを求められるため、努力の根源たる真面目さ・誠実さという気質は、協調性をもって仕事に臨むにおいても不可欠な素養として繋がってくる。
また、受験勉強の成績を効率よくアップさせたり大学での勉強に励むには一人黙々と机にしがみつくだけでは実を結ばず、有益な助言を与えてくれる教員・学友とコミュニケーションを取ることや、情報を取得するための書籍・資料・ネットコンテンツ等を取捨選択しながら上手く使っていく力も必要であり、これも組織の総合力を有効活用しながら仕事を進めていく上では必須のスキルとなる。
学歴だけでは、組織の中での協調性・コミュニケーションスキル・周りを巻き込む力・リソースを取り込む力は分からないので、就職面接でそれを見るものと考えがちだが、人によって主体的に集団行動の中で何かに挑んでいった経験の多寡こそあれ、実は受験勉強の成功者や大学で学問に励んできた者は仕事におけるコミュニケーション能力にかかる資質も既にモノにしている可能性が高い。
学歴だけで採用できる?
じゃ何でわざわざ高学歴を面接するのかというと・・・高学歴は仕事が出来るというのは傾向としてはあっても外れ値は往々にしてあるので、高学歴の中でもマナーやロジックがおぼつかない者は選考中盤までに排除している。超難関企業にもなると特別な経験や特殊能力を求めたりもするが、大抵の企業にとっては地雷を間違って引かないことが選考面接における一番の目的であり、実際に地雷とは言い切れずとも地雷臭が少しでも漂えば不採用が原則となる。このフェーズの面接では学生は一定の基準に基づいて採点され、大手であればあるほど機械的な採点が施される。
あとは最終面接等で、社風や社員の雰囲気に合うか合うわないか、そしてその学生が会社で将来活躍している未来が見えるかを、役員など採用権のある者のカンと経験と感性で決めてもらうというものである(それはそれで大事)。
中学や高校でも偏差値の高い学校ほど乱れは少なく、低い学校ほど荒れがちな時点で明らかだと思うのだが、学歴が高ければ理解力・表現力が備わっていることはもちろん、育ちも良く規律を重んじる人間が多くなる。巨大組織を円滑に動かさねばならない大手企業が求めるのは、まさにそういう人材である。
「学歴が低くても仕事が出来る人はいる」
起業して大成功している者はともかくとして(これこそ外れ値なので)、同じ組織内で語られる話であることを前提とすると、企業の中でも成果を上げている者・出世している者を見ても、学歴にあまり相関性がないように見える。
「だから仕事に学歴は関係ないのだ」と安易に結論付けがちだが、そもそも企業には似たような学生(少なくともその企業の社風や理念にかなう者)や同じようなレベルの学生が集まる。大学にはそれぞれ入試難易度を表す偏差値によってレベルが可視化されているが、敢えて地元に留まった者や惜しくも第一志望に不合格となり滑り止めの私立大学に入学してきた者など学内でも高低差があり、同じ大学であっても学生のレベルには幅がある。
出口に関しても、高学歴でも大手企業へ行けない人の方が多い中、高学歴でなくとも大手企業へ行ける人も当然いる。そして社内であまり見ない大学の出身者が仕事で成果を上げれば注目度も一層高まるというものである。同じ会社にいるのだから、その企業の中で相対的に低めの学歴であっても仕事が出来る人は見るというのは当然の現象ということになる。
「仕事が出来ない高学歴もいる」
歯車が狂うこともある
高学歴だと期待値が高いので結果を残せなければ、周りからの失望も大きくそれが目立ちやすい。それ程までに学歴という肩書の強さを感じさせるが、現に高学歴は一般的に能力も高く、コミュニケーションの資質も高い。
それでも特に後者が開花せずに、仕事が出来ない高学歴になってしまった人の特徴として「頭が良過ぎる」ことに足をすくわれてしまったケースをよく見てきた。
「専門性」のワナ
何年もかけて仕事に打ち込んでいると、やがて自分にとっての専門分野・コアスキルを見出せるようになる(見出せずに終わるケースも多々だが)。熱心に専門書を読み込んだり、社内外での軋轢に耐え続けながら経験・スキルを蓄積していけば能力・自信も高まり相応のアウトプットを期待出来るものの、一方では自分の十八番に熱を入れ過ぎるあまり、クセ・こだわり・プライドの肥大化を招きやすく、それがコミュニケーションの取り方に歪みをもたらしてしまうという側面もある。
特に自分がその分野では社内での第一人者になったと自他ともに認めるようにもなると、内部で自分に意見をしてくれる機会も激減していくため、ちょっとした認識のズレや外部環境の変化に対する感度も鈍くなり、「自分が正しい」「俺はこの世界の神だ」と凝り固まってしまうようになる。しばらくすると、世間とのズレが顕になり始めた自分に対する疑問が周りから生じ始め、自分もようやくそれに勘付き始めるが既に溶解不可能なまでに凝り固まっていると、反省するどころか「こんなことも分からん連中は勉強が足りん」などと今度は周りに対するマウンティングに精を出すようになる。
ここまで来るともはや末期症状であり、頼りにしてくれる人達が急激にいなくなり、機能しているように見えても実態としては組織からは切り離されパラで動かされている「自分だけの世界」が出来上がることになる。
それからどうなる
彼らも馬鹿ではないので、自分がついに居場所をなくしたことに気付き、その専門性を活かして転職する人も多いが、行く先々でも自分が思い描いた世界にはなっておらず、結局同じマウンティングを繰り返すことになる(でも気持ちは分かる。外からはハイレベルで盤石なイメージの超一流企業と言われていても実態は驚愕するほどガバガバだったというのはザラにあるから)。
ただ、どこもかしこも教科書で書かれているように原理原則通りに事が運んでいる訳ではない。そして物事にはそうなっている理由というものがある。本当に単にアホだったというケースも無くはないが、先人たちが長年の苦悩の末にその結論に辿りついたということもあるので、「この会社レベル低っ!案外チョロいな(笑)」と再び自分の王国の再興を図りにいくのか、「どうしてこうなった」と本質に迫ろうとするかどうかで転職の成否は分かれてくるだろう。
彼らでさえも・・・
近年は弁護士や公認会計士のようなプラチナ資格保持者も、弁護士事務所や監査法人から転職し、事業会社でサラリーマンとして仕事をする人が増えてきたが、残念ながら組織に馴染めず力を発揮出来ない人が実に多い。
どんなに頭が良くて専門性が高く弁が立とうとも、自分だけの世界に閉じ籠もって組織のレポーティングラインを守らずに和を乱して周りの士気を下げる者は、企業にとっては仕事が出来ない人、つまり「要らない人」なのである。
「いやいや仕事出来ない高学歴、周りに沢山いるけど」
仕方ないのです、それは
上のような例はあるものの、やはり高学歴は能力面でも人格面でも仕事が出来る人が殆どである。ただ・・・なんだかしっくりこないはずである。みんな仕事が出来るなど言うのは勝手だが、実際に力を発揮して成果を出している人ばかりではなく、やはりダメな人も一定数いることは事実のはずだ。それを例外として片付けていいものだろうか?
気をつけなければいけないのは、「仕事が出来る」というのはあくまで能力面・資質面での話であり、それらを遺憾無く発揮して「結果を出す」という面で語ると、また違った結論が導き出される。なんだそりゃ?と思われるかもしれないが、これに関しては個人の能力や資質ひとつで語れるような話ではないのだ。
上がポンコツなら地獄
「知能は環境が4割とか5割」という話は聞いたことがあるだろう。
仕事においても同じことが言え、個人としてどんなに仕事が出来るという能力・資質が備わっていたところで、ゴミのような環境の中では誰も力を発揮することなど出来ない。どんな環境でも臆さず自分の力が発揮出来るものなど上位0.1%の逸材である(そういう人は起業しとけ)。
いくら自分の能力が高くとも一人で出来ることはしれており、相手がポンコツならチームとしての結果は得られない。どんなにコミュ力が高くともハラスメントに遭えばいつかは潰れてしまう。そういった地雷野郎が部署に一人でもいれば部隊は全滅してしまうのが日系企業の弱みでもある(だから何次にもわたり面接してるのよ)。
前に述べたマウンティングバカの件でも同じことが言える。確かに本人にも問題はあるが、凝り固まってしまう前に異動を経験させてその人の視野を拡げさせたり思い上がりをこじらせないような取り計らいがあれば、彼にとっても組織にとってもまた違った未来があったかもしれない。マネジメントをする者によって作りだされる環境によって社員は活かされ殺される存在に過ぎず、仕事で成果が出せるかは4〜5割どころか、9割が環境による要因だというのが個人的な体感だ。
企業の中でも成果を上げている者を見ても、学歴とはあまり相関性は見られないという前の記述には「同じ会社なのだから」という背景以外にも、こういう理由も関係している。
会社は無情で理不尽が当たり前
逆に言うと、自分で成果が出せたつもりになっていても、それはたまたま良い環境に恵まれEASYなゲームをクリア出来ただけのこと。順風満帆でイケイケになっていても部長が代わったり地雷を一つ踏んでしまっただけで風向きは一気に変化し、徐々にパフォーマンスは低下の一途を辿り、流れがダメな時は本当に何をやってもうまくいかない。いつしか出世コースからは外れ「こんなはずじゃなかった」「どうしてこうなった」というドン底まで・・・そして自分は光らされていただけだったと、この時はじめて思い知ることになる。
とはいえ、ここまでリソースの奪い合いになっていてマネージャーもなかなかマネージメントに専念出来ないこの御時世、良い環境を用意するのは並大抵の難度ではない。もし悪い流れがあって、それをどうしても今すぐ断ち切りたい場合は自分から動き、社内公募制度への応募や転職に踏み切る手もあるが、行く先々でどんな環境が待っているかは殆ど運次第となる(社内公募はヤバイ部署ばっかだったけど)。
身も蓋もないけど・・・
結局、1社員が組織の環境に抗うことは難しく、むしろ抗ったら最後になることもあり、これはもう流れに身を任せるしかないのが世の現実だ。運や巡り合わせに振り回されても構わないから組織に乗っかるというのが雇われとしての生き方のはずである。
だが、誰しもが一生のうちに少なくとも一度くらいは自分にとっての追い風が吹くような時期も訪れる。流れを活かし、守りに入るべき時と攻めに転ずべき時期を見誤らなければ、仕事が出来る側に回れる可能性は開けてくるかもしれない。
※ 一般入試以外での入学者はこの限りではない