構成大学
・武蔵大学
・成蹊大学
・成城大学
・学習院大学
レベル帯
B級下位〜C級上位
概要
前置きが長くなります
この大学群の話をするには、まず旧制高等学校について述べなければならない。
同じ「高等学校」とは言っても現代の高校とはワケが違う位置づけであり、ここに入った学生は(初期においては)帝国大学への進学をほぼ約束されていた程の真のエリートであった。旧制高等学校においては国語・英語・数学などは勿論のこと、既に文科においては経済学・法制学・心理学・論理学など、理科においては物理学・科学・動物学・植物学など幅広い分野を守備範囲としたリベラルアーツ的な教育が施された。実質上、帝国大学への進学予定者に対する基礎教育機関とされていたのだ。
特に、19世紀末~20世紀初頭にかけて順次設置されていった旧制高等学校は、東京に設置された第一高等学校、仙台に設置された第二高等学校というように設置順に数値が付されたナンバースクールと呼ばれることとなる。その後も全国各都市に旧制高等学校は設置されていくが、それらはネームスクールと呼ばれていた。やはり前者の方が格上という風潮があり、ナンバースクールの中には後に帝国大学の教養学部等となっていくケースもあるが、意外にも当サイトでいうB級・C級クラスに位置する国立大学の前身も多かったりする。
今で言うと?
ちなみに、旧制中学校についても現代の中学校とはまるで異なり、そもそも義務教育ですらなく、生活・教育水準が比較的高い家庭の子が進学したところである。時代によって変化はしているが旧制中学校への進学率はせいぜい1割~2割弱ほどということで、弱冠10代半ばという年頃の時点で、現代でいうと当サイトでのB~C級以上の水準に位置する学歴を既にモノにしていたということになる。
旧制高等学校に至っては進学率1%程度と言われており、これは現代においては当サイトでのS級水準に相当するので、やはりエリート階層であることに間違いはない。
少しハードルは下がるが
話が少し逸れたが、ナンバースクール・ネームスクール以外にも旧制高等学校の設置は進み、当初は官立のみの設立であったが、大正に入って数年もすると公立・私立での設立も認められるようになった。この頃にもなると帝国大学の予科としての性質が見直され、中流以上の生き方を目指すため、ガッチガチのエリート教育から、より開かれた高等教育(高等普通教育機関)へとその色を変えていった。
旧制高等学校の期間は三か年であったが、これを機に四年制の尋常科を置くいわゆる七年制高等学校が誕生し、その代表格が武蔵高等学校・成蹊高等学校・成城高等学校である。これよりはるか昔から、学習院高等科(高等学科)が設置されていたが、大正10年にはここを卒業すれば高等学校高等科卒業生と認められることとなる。要件として、私立は設備資金のほか少なくとも五〇万円(今でいう2億円を軽く超える)の基本財産が必要であり、当時の財閥・財界人たちが立ち上がることとなった。
武蔵大学
「根津美術館」の人です
「成成明学獨國武」の一角ながら「成成明学」だけがスポットライトを浴びがちで損をこいているイメージがある一方で、少人数教育の評判は上々であり、厳しい理高文低の時代を生き抜いている。
創立者は、東武鉄道の経営再建にも取り組んだ「鉄道王」根津嘉一郎であり(東武に限らず、会社を立て直す天才だったらしい)、今でも本学と東武グループにはコネクションがある模様。
生存率低すぎ
旧制武蔵高等学校時代は、学年によっては入学者のうちの半分もストレートで卒業できなかったほどのスパルタ教育。しっかりと鍛え上げる「ゼミの武蔵」はその頃からの伝統か。だが意外と服装や髪形の方面ではあまりシビアではなかったそうな。
学校の名称は当初「東京高等学校」と申請していたが、公立で同名による設置計画(後の東大教養学部となる)があったため却下されてしまった。仮にこれが通っていたらどんな未来になっていたのだろうか。
成蹊大学
立地はどうだろ・・・
立地は武蔵野市の吉祥寺駅から徒歩約20分くらいであり、歩けることは歩けるが、多少面倒なことは否定しづらい。バスもノロノロ動かざるを得ない区間もあるため、時間を半分ショートカットできるかどうか・・・。
だが、吉祥寺の中心市街地からは少し外れ、住宅街ではあれ店舗もまばらに位置し、交通量も多くそこそこ賑やかな都道7号をひたすら西へ歩き続けると、成蹊学園のキャンパスが突如として姿を現し、生活感ある雰囲気からアカデミックな世界観へと一変する感じがまた良い。
成蹊ワールドへようこそ
すべての学部がこの吉祥寺のキャンパスに集っているため新旧色んな建物があり、正門からケヤキ並木を過ぎると出迎えてくれるのは、大正時代からの成蹊の顔となる本館(大講堂)。そこから少し左に向かえば、内部で巨大なキノコみたいなのが生えた近未来的な図書館、杉の匂い漂う理工学部の11号館(最近改装された)、ほかにもいくつかの建物で改装が進められており、まだまだ進化は止まらなさそうだ。
「トランスコンガーデン」なる施設も食堂近くにあり、「お?学内レストランでもあるのか?」と何も知らずに胸を躍らせながら入館したら、やたら天井の高い開放的なファミマだった。元は体育館だったようで、広々とした空間にはファミマ以外にも300以上のテーブル席などが設けられている。
その由緒と実力
創立者である中村春二の親友に三菱の第4代社長、岩崎小彌太がおり、彼が理事長に就任し、現代でも三菱とのコネクションが続いていることは有名。「GMARCH」を打ち崩す存在がC級以下の文系メイン私立大学の中から現れるとすれば、この成蹊大学こそが最有力候補であり、有名企業400社実就職率ランキングでも24年度は大躍進を見せている。
同じ敷地内に小学校から大学まで揃っているが、小学校から大学まで通い通した人物には、安倍晋三元首相がいる。
成城大学
田園調布に負けるか
その名の通り世田谷区成城に所在しており、高級住宅街のもの静かで落ち着いた雰囲気に加え、仙川沿いの緑豊かなキャンパスである。仙川沿いの桜も良いが、やはり外から本学正門へと続く通り沿いの銀杏並木がなんとも素敵な光景だ。
建物については正直あまり煌びやかとは言えず、高級そうなイメージとはギャップが少々あるものの、都会でも落ち着いたキャンパスライフを送りたい人にとっては周囲の環境は良いものだろう。駅からも程近く5分あれば行ける。
原点となるのはなかなか豪快な方
創立者は「日本教育界の父」とまで言われた澤柳政太郎。幼少のころは出木杉くらいの聡明さにジャイアンのような餓鬼大将ぶりを兼ね備えた神童(どんなやねん)だったらしく、偉くなってからも数々の器の大きさを感じさせるエピソードが残されている。
成城小学校入学者のおよそ3割以上が成城高等学校(高等科)へと進学し、そのうちの75%が帝国大学へと進学していた。本学の生徒は、当時の新中間層(いわゆるホワイトカラー)の家庭の子が多く、親達は子の成城小学校入学時点より既に帝国大学への進学を強く意識していたとされる。
学習院大学
唯一のB級大学
ご存じ「GMARCH」の一角であり、格がひとつ違う。
のだが、かつては「MARCH」以上のレベルがあると言われたところ、その地位は既に失われたどころか、B級というランク維持すら危ぶまれているのが事実である(言っちゃったよ)。「東京四大学」の方がしっくりくると言われることすら多くなったが、元々は四大学公式の大学群ではあり、旧制高等学校という面でもレベル面でもまとまりが出てきたというのは、本学にとって良いのか悪いのか・・・。
あまり多くを語るまでもない大学ではあるが、キャンパス内では意外と「ウェーイ」としており、パッと見た感じは普通の大学とさして変わることもない。とはいえ、個人的に何名か知り合いはいるが皆とてもお行儀がよく、やはり人格の根底に品格が備わっていることを感じさせられる。
歴史と重みが伝わる
ここも新旧様々な建物がみられ、登録有形文化財である西1号館・南1号館からは重厚感あるオーラが発せられており(写真じゃ分からないんだなこれが)、タワマン・・・というにはちょっと違うかもしれないが現代的で図書館・タリーズが入る高層の東1号館、JALにケンカ売ってるのか「さくらラウンジ」など、多彩な顔をのぞかせる(ちなみに学内ではANAによるエアライン研修が開かれている)。
正門ではないのだが、西門はJR目白駅とほぼ直結と言ってもいいくらいのド直近であり、駅とキャンパスの間にはスタバもあり、少し足を延ばせば池袋・新宿も近く・・・やはりこの恵まれた好立地は、「選ばれた」感がある。
東京連合大学
時代を先取りしすぎた?
戦後、新制大学への移行に苦慮したこれら4つの旧制高等学校は、それぞれの特長を活かし合った小カレッジ(各校の新制高校卒業者がどこのカレッジに行くかを選択できる)を構える「東京連合大学」の発足を目指すこととなるが、各校での調整がうまくいかず夢は潰えることとなる。
ただ、戦前より続いてきた四大学の交流自体は途絶えることなく、1950年から四大学運動競技大会が毎年開かれ(種目は実に多岐にわたる。一番強いのは学習院)、近年では「リベラルアーツ5学園」を結成し、受験生向けのイベントなどを開催している。
近大にないものを持っていた
いきなり1つ大学が増えたのだが、同じ旧制高等学校にルーツを持つ甲南大学が加わっている。
今でこそ当サイトではD級のランクではあれ、創設者である平生釟三郎が関西財界に築いた影響力や、旧制高等学校としての伝統を基盤に、現在でも関西の大手企業への就職者を輩出するなど、一定の力を保ち続けるダークホース的な存在感を示している。このような背景が、今の評価にも少なからず影響を与えていると言える。