“科目数が多い”からってマウントとってもイイのか?(国立大学が評価されるワケ)

コラム

1. 科目数と偏差値

よくあるやつ

 

A:2科目で偏差値65
B:3科目で偏差値60

上記A、Bはどちらが難しいのだろうか?

受験者の得点分布・バラツキ具合が正規分布(荒っぽい言い方だが、左右対称な綺麗なカーブを描いているもの)の場合、偏差値65と60はそれぞれ全受験者における約上位6%、16%にあたる。つまり、全受験者数を100名とすると・・・

 

A’:2科目で6位以内
B’:3科目で16位以内

を達成すること、と置き換えることが出来る。

どこから目指すのか

ゼロの状態からA’B’を目指していく道筋を本来は考えるべきだが、それでは道のりが遠すぎるので、途中経過から考えてみることとする。

ここで「前提」として、2科目トータルで偏差値60(100名中16位以内)を既に達成している状態であるとするならば、上記のA’B’を達成するための条件はそれぞれ以下の通りとなる。

 

A”:2科目の順位を16位→6位へと引き上げる(10人抜き)
B”:2科目の順位を維持し、もう1科目を16位まで引き上げる

さて、A”、B”はどちらの方が達成難易度が高いのだろうか?

“10人抜き”と簡単に言っても

勝手知ったる既存2科目に引き続き焦点を絞り、たった10人抜けばいいだけのA”の方が取っつきやすそうにも見えるが、その科目をマスターする領域にさしかかり、日々研鑽に勤しむ上位層の中で10人を一気に斬り倒していくのは、中下位層において10人ごぼう抜きするのとは全くもってワケが違う。

もう1科目出来るかな?

対してB’については、他の1科目に関して現状でどれだけ学習が進んでいるかにもよる。流石に初学では上位16人以内に入るためには数ヶ月程度の勉強では済まないだろうが、現実的に見て、他の2科目で偏差値60を達成出来る者であれば高校の授業において最低限の基礎知識は得ている可能性が高い。

しかし、それだけの学力で留まっているのか、それとももう少し学習が進んでおり既に上位30位くらいの位置には来ているのかで、大きく話は変わってくる。

また、追加の1科目だけに注力すればいい訳でもなく、既存2科目の成績も維持しなければならないという負担も考慮すべきである。

上はシンプルな一例に過ぎない

そもそも「前提」だって色んなケースが考えられるだろう。現状で3科目トータルで上位30位以内にいる場合もあれば、極端だが1科目で上位3位以内を不動のものとしている場合もあり・・・いずれにおいても今後の展開は変わってくる。

そして、2科目だの3科目だの言っているが、何の科目かにもよるという影響も考えられ、あれこれ考え出すとキリがなく、もはや何が何だか分からなくなってきてしまった。

ムリです

偏差値は分かりやすく見えるが

という風に、上記の比較においては、現状の学習進捗度合、必要となる科目、本番まで何日あるかなど、ありとあらゆる変数が存在し、つまるところ「人・状況による」としか言いようがないのである。

2科目と3科目の比較でこの有様だ。まして、国立大学私立大学の難易度比較ともなると、例えば、方や共通テスト・個別(二次)試験という別々の試験を受験し、科目数も共通テストで7科目プラス個別試験で2科目、方や私立大学の個別試験3科目だの言われたら、あまりに条件が違い過ぎて厳密な比較はもはや不可能に近い。

多くの科目数をこなし幅広く勉強しなければいけない国立大学の方が難しいとは言われ、科目数を絞って私立専願に転向すれば難関私大も確実にモノに出来ると思いがちだが、本当にそう言い切れるだろうか?難関私立大学だと科目数が少ない分、より深い知識や理解力が求められることもないだろうか?

入口評価も大学群の序列に頼ったり主観が入り混じってることが多々あります

国立型、私立型、どちらが難しいかというのも一概には言えず、さらには推薦入学の比率によって一般入試の偏差値は影響を受け、国立大学の中、私立大学の中でさえも厳密な比較は難しい。そして私立の場合は受験方式の細分化によっても偏差値が変わり・・・という事情により、入口評価である入試難易度での比較というのは実は就職実績での比較以上に難易度が高かったりする。

ちなみに、出口評価のメイン指標である大手企業への就職実績についてはこちらのコラムをご参照。まぁ、こっちはこっちでヒトクセもフタクセもあるのだが。。。

国立大生、たいしたことない?

てなわけで、「科目数が多い・幅広い素養を備えている」というだけで、入試が難しい・学生のレベルが高いとは言い切れない、というのがここまでの話である。

しかしながら、もっと先の方で解説するが、国立型・私立型どちらが難しいかにかかわらず、「科目数が多い・幅広い素養を備えている」というのは、それそのものが大きな価値・意義を有している。

2. 国立大学の真髄

また、国立大学出身者の持ち味は単に「多くの科目をこなしてきたこと」「幅広い素養」だけには留まらない。

国公立の受験は長丁場

なんで2回もあるの・・・

ご存知のとおり、国立大学の入学試験では、大学入学共通テスト・各大学の個別(二次)試験という、毛色の異なった別々の試験を受ける必要がある。

大学入学共通テストにおいては多くの国立大学で、高校の勉強での基本教科を網羅する、5教科7科目を必須として課されることになる(B級以下で例外はある)。

なぜ国立大学ではここまで幅広い科目・多くの試験を課す大学が多いのだろうか?

国立大学共通の基本方針がある

実は、一般社団法人国立大学協会(以下、国大協)という、国立大学同士の連携を目的とした機構が古くから存在する。

その国大協による、「大学入学者の学力水準を維持するとともに、多面的・総合的な評価により高い意欲・関心を有する多様な学生を受け入れるために極めて有効である」という考え方のもと、大学入学共通テスト5教科7科目に加え、大学個別試験必須を原則としているのだ(24年度からは「情報」も加わり6教科8科目になるとのこと・・・大変だ)。

大学入学共通テスト

高校での学習内容における基礎学力をはかるというイメージが強いが、そもそも高校の勉強では基礎をマスターすること自体が普通の人間にとっては決して容易ではない。

さらに、教科書をマスターさえすれば高得点が取れるという訳でもなく、大学入学共通テストはスピード感が問われることもあり、独自の出題形式に対応するための訓練も不可欠となる。

2日間に及ぶ試験は受験生にとって大きな負担になるとともに、難関大学ほど些細なミスが致命傷ともなり得るため、襲いかかるプレッシャーも凄まじいものがある(ちなみにワシの時は、1限目が英語であり、最重要科目かつスピード感が求められる科目が最初にきたので緊張感ハンパなかった)。

次は二次

だが、国立大学の受験生が本当に大変なのはここからである。

マーク式とは別物

大学入学共通テストを終えれば、次は各大学の個別(二次)試験が待っている。ここでは、各大学のアドミッションポリシー(どのような学生を求めているか)に基づき、論理的思考力・判断力・表現力を問う高度な記述試験が課される。全問マーク式の共通テスト、マーク式・選択問題が主体の私立大学の問題とは違い、記述問題が主体であることが特徴となる。

ダミーはあれど最初から回答が用意されている選択問題とは違い、記述問題の場合は白紙の状態から自分自身で回答を作り上げていく必要がある。ということは、ゴマカシのきく選択問題とは違い、より正確な理解が求められるのである。

出来るつもりになってるだけ

例えば、記述問題特有である「英作文(ライティング)」ではリーディング・リスニングとは難度が桁違いである。

様々な単語・熟語・文法といった知識をルール通りに組み合わせ、ニュアンスが正確に通った言い回しで文章を作成することが必要となり、とりあえず意味が通るからと無造作に要素を拾って組み立てただけの独りよがりな英文では通用しない。

これをソツなくこなせるのはS級大学合格者ですらなかなか見付からないくらいであり(もとの日本語次第だけど)、それくらい高度な知識・技術が求められるのが国立大学の試験である。

アウトプットも大変

記述問題の難しさは、それだけには留まらない。「自分はここまで分かっています」ということを正確かつ簡潔に採点者へと伝える表現力も必要となる。

国語の記述問題はその最たるものであり、問題に対する回答(適切な答え方、文末)になっているかどうか、主語・述語など文法は整っているかどうか、指定文字数におさめるために原文の意味を崩さず要約して回答出来るかどうか。

英文和訳でも、杓子定規な和訳となり日本語として崩壊していないか、また、意訳をし過ぎて「押さえるべきポイントが分かっていない」「コイツごまかしたな(笑)」などと採点者に誤解されて伝わらないだろうか、そのバランス感覚が難しい(これは大学によって好き嫌いがある)。

という風に、国立大学の個別(二次)試験においては、「書く力」という、また別の能力が求められるのである。

独学では限界が

これを軽視してしまい、理解したつもりが本当は本質を押さえられていない、または本当に分かっていてもそれを正確に表現出来ていないことに気づかず、伸び悩んでしまう受験生は多い。

「手が届きそうなのに届かない」「背中が見えているくらいの感覚があるのに何故か結果に表れてこない」などとモヤモヤした状態が続いてしまうのだ。

独りでは、このような状態を打破することは難しい。自分で何でもこなせるなんてのは天才のなせる業であり、こういう時は、面倒見がよく、的確なフィードバックをしてくれる優れた教師が欠かせない存在となる。良い環境に恵まれるという巡り合わせも影響し、独りの世界に閉じこもらず、環境・リソースをフル活用出来る力も、国立大学に立ち向かう上では要求されてくる(こういう力は将来ホンマに役に立つ)。

科目の“数”だけではない

「共通テストごとき基礎問題を7科目やったくらいでマウントとられるなんて心外だなぁ。国立大学の二次試験もS級以外はせいぜい3科目じゃないか。それくらい私立大学でも課されているし・・・」

とんでもない。

同じ科目数といっても、求められる能力の幅・深さは格段に違う。共通テストや私立大学の入試に比べて、国立二次は1科目につき、

× 2 以 上 の 負 担

が課せられるということを憶えておいた方がいい。科目数や偏差値といった「数字」だけでは説明できない負担・難しさが、そこにはある。

※選択問題が大部分を占めるとはいえ、私立大学にももちろん記述問題は出題されます(慶應経済の英作とかややこしそう)

一流大学は試験問題も一流

洗練された良問

難関大学であっても、試験問題を見てみると、一見とっつきやすそうな問題もそこそこ見受けられたりするが、実はしっかりと差が付くように作りこまれており、

「赤本で分からない問題ねえわ(笑)。これのどこが難関大学だ(笑)」

などと舐め腐りまくった挙句に、蓋を開けてみたら無様に不合格だったということが往々にしてある(敵の怖さが分からないうちは合格は遠い)。

鬼の重量入試

だから国立大学は難しいのであり、特に個別(二次)試験は科目が1つ増えるごとにズッシリと重みが変わってくる。それがA級以上の難関国立大学が「難関」たる所以である。

各大学の出題傾向に合わせた訓練も勿論必要。全統記述や進研模試で「B判定」が取れているからと言って、本当に合格力があるとは限らないというのは今更語るまでもない。

また、二次試験で数学の負担が増え、B級以上だと理科2科目課されることも多くなる国立理系はやっぱりスゴイ。

さらには、近年は後期試験が廃止された大学も増え、後期があったとしても難度は跳ね上がるため、第一志望の大学は実質的に、一発勝負である。

真のオールマイティとは

国立大学出身者の持ち味は、多くの科目をこなしてきた「幅広い素養」に留まらず、表面的な理解力・事務処理能力を超えた、本質を捉える力・論理的思考力・表現力(書く力)などといった「幅広い基礎的能力」にも見出だせる。

知識のジャンルが広いだけではなく、それらを料理する技術力も違うのである。

3.「求める人物像」に変化?

日系企業はゼネラリスト志向

メンバーシップ型雇用・人事制度

国立大学出身者の「幅広い素養・基礎的能力」は長きにわたって社会で重宝されてきた。私立大学に比べると「学歴フィルター」の心配が少ないと言われるのは、基礎学力が備わっているというお国からのお墨付きが得られ、私立大学に比べると人数も少なく希少価値が高いことも理由としてあるが、日系企業が求める人物像とマッチしていることも挙げられる。

日本では「メンバーシップ型」の雇用・人事制度が高度経済成長期以来の伝統であり、会社人生の中で異動・転勤によって幅広い仕事を経験させ、やがて大小はあれ組織のマネジメントを経験し、会社の経営を任せるに足りる人物なのかを試されていく。

そこで求められてきたのは専門的能力よりも、主にまじめで協調性のある人柄とポテンシャルであり、特に大手であればあるほど、そして上に行けば行くほど、重視されてきたのは「人や組織を動かす力」の方である。まさに「幅広い素養と基礎的能力」を備えた国立大学出身者は、一つの分野に留まらず広い視野を持つので管理職としてのベースの一要素が整っており、多彩な可能性を秘めた存在として日系大手企業から評価されてきたのである。

ジョブ型雇用・人事制度

海外ではこちらが主流

ところが、21世紀も四半世紀が過ぎようとしている現代、日本の人事・雇用制度において変革の波が既に訪れてきている。

従来の「メンバーシップ型」雇用・人事制度は、「人」に対して様々な「仕事」をつけていくという考え方であるが、「ジョブ型」雇用・人事制度とは、逆にまず「仕事」ありきであり、それに対して様々な「人」をつけていくという考え方である。

従来の制度とはまるで違う

担当業務の領域が曖昧であり下手をすれば「何でも屋」にさせられてしまい、若いうちは我慢を強いられ年次を重ねるごとに徐々に上がっていく賃金カーブとなる「メンバーシップ型」とは違い、「ジョブ型」においては「職務記述書(ジョブディスクリプション)」によって、担当業務の一切を明確に指定・文書化され、それに沿って報酬も定められていく。

これなら中年になるのを待たずとも、能力・実績次第では若いうちから高給とりになることも可能だ。さらに、社員の育成を前提とせず、「仕事」にハマるような、既に育成された人材を獲得することになる。

最近よく聞くようになってきた

このような「ジョブ型」がプレゼンスを増してきた背景としては、一つには、高度なIT人材の獲得競争にある。ITの進歩が進む一方でそれに対応するための人材が不足しており、世界的な人材の取り合いが発生する中、既存の人事制度にハマらない厚待遇によって高度な技術者を迎え入れる必要が出来てきたのだ。

もう一つの背景としては、多くの日系企業が力を失っている中、「メンバーシップ型」と一体となる年功序列制度を維持することが難しくなってきたことが挙げられる。「メンバーシップ型」の問題点である「働かないおじさん問題」、社員の育成にかかるコストによって膨れ上がる人件費を削減し、競争力を取り戻そうとする狙いがある。

そして、「ジョブ型」では一人一人の目標もより明確に定められ成果がはかりやすい仕組みとなりやすく、成果で人を評価するという点では、新型コロナウイルスの影響で急速に普及したリモートワークとの相性も良く、近年声高に取り上げられるようになってきたのである。

ジョブ型はスペシャリスト志向

先述の通り、「ジョブ型」は社内での人材育成を前提としない。ということは、雇われる側は仕事で必要となる知識やスキルを自分で身につけておく必要があり(実質いまもそうなのだが・・・)、雇われる前はもちろんのこと、雇われた後も継続して研鑽に励み、より高次の仕事を目指して昇給させていかねばならない。「ジョブ型」では年次による昇給などないに等しく、新たな仕事が出来るようになって職務記述書を書き換えなければ、給料はずっとそのままなのだ。

そのような雇用形態が普及していくならば、「幅広い素養と基礎的能力」では到底勝ち残ることはできず、社会からより求められるのは「高い専門性」の方ということになる。つまり、これからは特定の科目で高い学力を有し、一芸に秀でた専門性の高い難関私立大学の出身者の方がより社会から重宝されるような世の中に変わっていき、国立大学の出身者はその優位性・プレゼンスを失っていくことになるだろう・・・

本当にそうか?

ツライ試練を与えられた意味

・・・と考えるのが自然なのかもしれないが、「メンバーシップ型」「ジョブ型」どちらが主流になろうが、「幅広い素養と基礎的能力」は生き残る上で欠かせない武器・財産であり続けるだろう。何故なら、たとえより専門性が求められる世の中になろうとも、単体の素養・能力・スキルだけでは、高次な仕事は成し遂げられないからである。

ここで思い出すべきなのは、先に出てきた、大学共通テスト5教科7科目・大学個別(二次)試験を課すという国大協の理念である。これから社会科学・人文科学・自然科学、様々な専門的な学問へと足を踏み入れる若者たちに対して幅広い基礎的学力を課しているのは、専門性を伸ばすためには確固たる土台が必要だからである。

“真の専門性”とは

文部科学省の審議会である「科学技術・学術審議会人材委員会」による提言の中には、幅広い知識を基盤とした高い専門性こそが「真の専門性」であるという旨が述べられている。

専門分野の融合や変化への迅速な対応が求められる現代においては、幅広い視野や変化に対応できる柔軟性が求められる(詳しくは、世界トップレベルの研究者の養成を目指して」-科学技術・学術審議会人材委員会 第一次提言-(平成14年7月)。

高みを目指したいなら

一皮も二皮も剥けていかねば

上記は研究者養成に関する提言であり、フィールドは全く異なるが、民間企業における仕事でも同じことが言える。

「ジョブ型」になったとしても、最初は作業職的な仕事、例えばエクセルへのデータ入力やグラフ作成くらいであればエクセル単体のスキルや、そこそこの事務処理能力さえあれば何とでもなる。

しかし、ここから少しずつ仕事のレベルを上げていき、作成したグラフをもとに状況分析をするには社内知識のみならず外部要因の知識が必要になり(社会&本質を捉える力)、そこからさらに予算・企画を組み立てるには数字・論理性にも強くなる必要があり(数学&論理的思考力)、それを偉い人たちに報告するには資料作成・プレゼンテーション能力(国語&表現力)が必要になったり、海外グループ拠点・取引先との連携には語学力(英語など&表現力)も求められる。

文理の壁がなんだ

ちなみに、文系社員には理科はあまり要らないようにも思われがちだが、営業・事務屋にも基本的な商品知識・仕組みの理解は必要であり、「モノ」そのものの中身を知っているか知っていないかで、顧客や世間からのニーズをキャッチして如何に商品を改良出来るかという企画・提案に実現性・実効性を備えていけるか、いざという時のトラブル対応・改善策の検討などに対して迅速かつ適切な判断・対応をとれるかが分かれてくる(ま、理科というのは大げさかもしれないが)。

特に「スピード感」は企業への信頼、担当者個人への信頼の獲得には大切であり、競合に打ち勝つ要素ともなる。あまりに専門的な知識は専門部署に頼るしかなく、権限・能力の範囲を越えて勝手に決めちゃいけない場面もあるのは確かだ。かといって、何でもかんでも「担当に確認いたします」では、どうしてもタイムロスが避けられないうえ、相手からも頼りない担当のように映ってしまい、不安も増幅させることとなり、これでは信頼はなかなか勝ち取れない。

そして、技術屋がいつも積極的に助けてくれるなんて思っていたら大間違いである。細かい知識では勝てるはずもないが、問題解決の方向性くらいは自分から提案出来るくらいじゃないとダメだ。あと、「モノ」自体をよく分かっていると、それだけで仕事がちょっと楽しくなったりもする。

キャリア・スキルの掛け算

好きなことだけをやっていたいなら、一つの道を突き進むのもアリだが、より影響力が大きく稼げる仕事に就こうと思ったら、色んな知識・スキルを掛け合わせていかねばならない。そして、昇進・昇格し、組織のマネジメントをする立場にもなれば、組織のあらゆる面に目が行き届かなければ仕事にならない。

一つのことをただひたすらに極めて成功する者もいるが、その分激しい競争となり、生き残れるのは技術革新を生み出せるほどの一握りの天才のみ。

変化の激しいこの現代、一つのスキルがいつ不要になり、いつ必要とされるかも読めない。こんな時代であるからこそ、「幅広い素養と基礎的能力」の大切さを忘れてはならないのである。

そもそもジョブ型ホントに定着するか??

体制がまだ整っていない

  • 「これからの日本は『ジョブ型』でキマリ!」
  • 「この流れは決定的。もう誰にも止められない。」
  • 「『メンバーシップ型』は負の遺産だ!」
  • 「『働かないおじさん』達が一生懸命『ジョブ型』を否定している(笑)」

・・・などという論調も見受けられるが、現実的にわが国で「ジョブ型」が定着するには、まだまだハードルが残っていることも事実である。

法律

「ジョブ型」は「仕事」ありきであるため、海外ではその「仕事」がなくなった場合、それにくっついていた「人」は御役御免となる。となれば、人を簡単に解雇できない日本の労働法は厄介な代物である(経営者目線で)

その点、アメリカはやはりドライであり、仕事がなくなればアッサリとサヨナラだが、ヨーロッパだと社内異動を検討してくれる企業が多い国もある(でもそれってなんか中途半端だよな〜)。

教育

また、「ジョブ型」の場合は労働者自らが専門性を高める必要があるが、ほとんどの日本の大学や企業インターンシップでは企業で即戦力になるような専門教育は施されていない。

したがって、現状では新卒採用での「ジョブ型」雇用はなかなか難しく、特にほとんど専門性を持たない文系では厳しいだろう。転職者の場合はそもそも募集要項に職務記述書のようなことが書かれているので、「ジョブ型」に近いところはあるが、入社しても職務記述書をもらうわけではなく、大体の場合は「総合職」である(年齢が上の場合は実質エキスパート・専門職のような扱いの場合も多いが)。

本気で「ジョブ型」をわが国のスタンダードするのであれば、各社が頑張るだけでは難しく、国が一丸となって体制整備を進める必要がある。

ジョブディス作るの大変よ

「ジョブ型」を導入するにあたっては、職務記述書(ジョブディスクリプション)の作成が求められるが、これが実に大変らしい(実物を見たことあるが作りこむと時間かかるだろうな~)。

ミスマッチを防ぐため、実態を正確に把握する必要があり、しかも作って終わりではなくメンテも必要となってくる。海外では職務記述書作成のためのコンサルまでいるくらいだ。

日本人の口に合うだろうか

そして、なにより、「チームワーク」が大好きでお互いにフォローしあって仕事を進めるのが得意な日本人にとって「ジョブ型」が馴染むのかという懸念もある。

大手企業では担当業務・業務分掌が定められており、普段は定められた職制の中で動く必要がある。ただ、流石に職務記述書レベルでガチガチに固められている訳ではなく、困った時は組織で助け合うのが日系企業の古くからの強みでもある。

ちなみに、我が国の超有名な大手メーカーでは、2000年台のはじめから既に「ジョブ型」を少しずつ導入しており、今後は完全移行を目指すというニュースも大々的に報じられた。日本におけるジョブ型移行の象徴的扱いともなっているが、内部からは「あまり変化を感じない」という声があるのも事実である・・・。

形だけのジョブ型になるおそれ

「メンバーシップ型」「ジョブ型」どちらが正義でどちらが悪という話でもなく、雇用・人事制度は会社によって様々であって然りだが、本当に競争力のある人材を獲得したいのであれば相応の報酬を用意する必要がある。

そんな中で下手を打てば、人件費削減にこそ貢献したものの、その分競争力が落ちてしまった、かつての「成果主義」の二の舞を迎える結末にはならないだろうか。「目先の利益」に走ることも企業が生き残る上では致し方ない場合もあり、「ジョブ型」もこれからある程度は浸透する可能性はある。

しかし、これが真に競争力を得るための雇用・人事制度として我が国に定着するまでの道のりは、そう平坦なものではないだろう。

4. まとめ

国立大生のポテンシャルは高いが

多くの科目をこなして幅広い素養を身につけ、問題の本質をとらえて論理的に答えを導き、それを簡潔かつ正確に表現できるという多彩な基礎的能力を備えた国立大学出身者は可能性に満ちており、高く評価されている(今までスルーしてきたが、公立大学もそれに準じるということで)。

だが一方では、「もっと評価されるべき」「もっと活躍すべき」とも感じており、地元への貢献も素晴らしいことであり大きなお世話だろうが、その力を日本の中心で、さらには世界を舞台として、より一層活かすことが出来るはずである。

私立をあまり舐めない方がいい

また、大手企業への就職の際には、都会の難関私立大学の学生はその立地・OB達による政治力・手厚いサポートを活かして、早い時期から積極的に活動を始める。特に地方の国立大学にとっては、学歴的には難関私立大学にも決して劣ることはないのだが、それ以外の要素については、むしろ不利であるという危機感を持って臨むくらいが丁度いい(理系の一部は別)。

何より、彼らの多くは大学受験の時に国立大学合格者に敗れており(私立専願だった方はごめんなさい)、リベンジの場である就活の時は並々ならぬ気持ちで臨んでくる。

「私立大学なんか格下」などと余裕かまして驕り高ぶってしまうと瞬く間に転落することになるので、ゆめゆめ油断召されないように。彼らは手強い。

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